2021年4月29日

AI時代に見えてきた人間の本質

AI将棋が、名人を寄せ付けなくなり、ある意味、シンギュラリティを超えた。名人の打つ手なら、その一手の理由を尋ねることができる。つまり、凡人には理解できない光る一手、妙手と言われる名人ならではの、その一手にいたる理由を我々も知ることができた。しかし、AIは、その理由を尋ねても、答えることはできない。膨大な過去の棋譜を学び、学んだAI同士でさらに対戦を繰り返して導かれた最強のAI棋士にとって、過去の棋譜の学びから実戦のすべての経験則が導き出す一手は、それらのすべての総体がその一手に至る理由である。

そして、名人も人の子である。勝ちが見えてきたときに、うっかり油断した一手を打ってしまったり、ちょっとした相手の仕掛ける謎の一手に動揺し、とんでもない悪手を放って自滅してしまったりすることもある。しかし、逆にAIには感情がない。淡々と経験則に従い最善の一手を積み重ねる。つまり、間違いがない。だから、名人も寄せ付けなくなったのだ。

ここで、AIと人間を対比してみることにする。AIは、間違えない。(あくまでも経験則の中においてだが)正解の連続を積み重ねる。逆に、人間は間違える。つまり、間違えることこそが、人間らしさとして浮かび上がってくるのではないか。

人間は、社会で生きていく能力を身につけるために、教育が施され、学習してきた。これまでの教育の歴史は、「間違え」ないことを目指してきたように感じる。いかにすれば、間違う選択をしないでおけるかを教えられ、間違いのない生き方を目指してきた。

そして、AI時代に見えてきた人間の本質は、人間とは、間違える存在であるということではないだろうか。

地方自治体の二元代表制も、首長と首長の提案を議決する議会の構成員である議員の2つを選挙によって選ぶシステムである。なぜ、2回も選挙をする必要があるのか、というのは、人間は間違える存在であることが前提になっているからだ。

間違える存在である人間。果たして、間違えなくなる日が来るのか。

AI時代は、教育の歴史も塗り替える可能性が見えてきたような気がする。